【1冊目】 ウンベルト・エコ (谷口勇訳) 『論文作法: 調査・研究・執筆の技術と手順』 而立書房 (1991年:原著1997年)

論文の書き方について、私たちは、清水幾太郎の『論文の書き方』と木下是雄の『理科系の作文技術』という、2冊の名著をもっている。この2冊さえマスターしていれば、もうそれ以上のノウハウはいらない、といってもよいくらいだ。
 だが、あえて紹介したい3冊目の『論文の書き方』が出現した。それが、このエコの本である。清水氏の本が文章の書き方について説き、木下氏の本が文章の構造化について教えてくれるとすれば、エコの本はテーマの決め方、資料の扱い方まで含めて論文の書き方を示してくれる。なお著者は、記号論で名をなした研究者であるが、同時にベストセラー『薔薇の名前』の作者としても評判の人である。
 簡単な序論(Ⅰ章)につづいて、「テーマの選び方」(Ⅱ章)にはいる。ここでは目指す論文によって、覚悟も準備も違うよ、ということが語られる。つまり、「モノグラフ的論文か、パノラマ的論文か」「歴史的論文か理論的論文か」「古典的テーマか現代的テーマか」「科学的論文か政治的論文か」といった視点で、書きやすさについての助言があたえられる。
 つぎは「資料調査」(Ⅲ章)。ここで語られる方法は人文的学問に関するものである。だから、データベースを駆使できる企業人には、そのノウハウをそのまま利用できないかもしれない。
 ただし、まず文献リストを作れという注意と、その具体例の紹介は、教訓的である。その具体例では、地方の小図書館を利用するだけでも相当に高度な文献調査ができる、というシミュレーションをしていることである。『薔薇の名前』の読者であれば、この記述を読みながら、主人公が図書館を徘徊する姿を彷彿とすることだろう。
 つづいて「作業計画とカード整理」(Ⅳ章)に移る。ここではスケルトン作りの手法が示される。
 さらに「原稿作成」(Ⅴ章)にすすむ。ここでは、明晰な文章を書くためのルールが語られる。
 注意すべきは、引用の方法について、さまざまの角度から検討がなされていることである。つまり引用、敷衍説明、剽窃のちがいの説明。これは論文作成という行為が、先行者の業績にたよる以上、重要な視点である。文章読本で、このような視点が強調されたのははじめてであろう。
 最後に「決定稿の作成」(Ⅵ章)。ここでは文章の清書の仕方について細かい注意があたえられている。ただしワープロを自由に使える私たちは、ここの注意をそのまま活かすことはできない。
 とはいえ、文章を構造化するためにどんな様式(括弧の使い方、注の付け方、文献の表記など)にしたらよいか。これらについては、ずいぶんと貴重な助言がある。
 この本は、じつは、はっきりした読者層を対象にしている。人文系の博士論文を書くための手引きとして出版されたものだからである。
 ところで、人文系の学者諸氏は本当にこのような手順を踏んで論文を書いているのかしら。僣越ながら、こんな疑いをさしはさむと、この本は学者の世界における内部告発の書ともみえてくる。

『コンピュートピア』 6月号 (1991年)