【3冊目】 デイヴビッド・オレル(太田直子ほか訳)  『明日をどこまで計算できるか?: 「予測する科学」の歴史と可能性』 早川書房 (2010年:原著2007年)

近時、政策決定や制度設計に、コンピュータ・シミュレーションによる予測が利用されるようになった。たとえば地球温暖化、耐震設計について。あるいは、ビジネス機会の創出がコンピュータ・シミュレーションによる予測そのものといった事業も出現してきた。たとえば金融取引、遺伝子診断について。
 予測とはなにか。その手法にはいろいろとある。占星術、サイコロ、手相、当て推量、あるいは聖書、易経の解釈など。また、シミュレーションとはなにか。「本番」に対する「試行」である(注1)。「試行」は簡単であれば当たらない。複雑であれば「本番」と同じになり、意味がない。
 ここに紹介する本は、そのなかでシミュレーションによる予測を選び、それを過去、現在、未来を通して論じたものである。
 本論にすすむまえにひと言。評者が予測のシミュレーションに関心をもったのは、この5年間ほど、地球温暖化に関する公的なプロジェクトの評価委員をしてきたためである。ここでは、ほとんどの資料がコンピュータ・シミュレーションによるものであり、それがあまりにも当たり前なので、そもそもシミュレーションの正当性はどうなの、などという疑問を出すこともはばかれる状況だった。そんな評者にとって、この本はよい助けとなった。
 以下、この本の紹介に入る。著者は、まず、「過去」をたどる。予測はピタゴラスに始まる。ピタゴラスは、万物は「数」に還元できなければならない、そうでないものは学問の世界から排除される、というモデルを創った。プラトンはこれを「幾何学を知らざるもの、学園に入ることあたわず」と拡張した。それは「定規」と「コンパス」で記述されるものに限られ、ここから外れるものは学術ではない、とした。学術でなければ、予測の手法にはならない。
 このギリシャ・モデルを天体の運行に応用したのが、プトレマイオスであり、かれは、円運動を重ねることにより、つまり周転円によって惑星の運行を予測することができた。だが、このモデルは観測精度の向上とともに破綻してしまう。ケプラーは試行錯誤のすえ円モデルを楕円モデルに置き換え、ニュートンはそれを微分方程式へと一般化、単純化してしまう。微分方程式であれば、方程式と初期条件があれば、その未来は完全に予測できる。いわゆる要素還元主義、数量還元主義である。
 ニュートン以降、科学者は自然現象に対して、この微分方程式モデルを応用し、自然現象に対する予報をしてきた。もし、その精度が十分でなければ、そこに新しいパラメータを導入し、これによりモデルの近似の程度を高めるという手法で、そのモデルを精緻にしてきた。
だが、この方法では安定な解を得られないことがある。それは、微分方程式モデルが初期条件に敏感な場合と、パラメータに敏感な場合とである。前者をカオスと呼び、後者を複雑性という。
 ここで「現在」の話題に入る。まず、気象予報。ここには大気の循環を示す微分方程式があり、その精緻化の過程でカオスが発見された。だが、カオスはコンピュータ・パワーが十分にあれば、なんとか処理できるが、それで予報の精度を上げることはできなかった。そこで、さまざまなパラメータを導入した。それは前コペルニクスの時代、周転円を重ねて惑星軌道を予測する試みと似ていた。だが、予報の誤差を抑えることはできないでいる。パラメータを増やせば、その分、モデルは不安定になるから。
 もう一つ、たとえ、そのモデルが過去を見事に再現しても、それをそのまま未来に外挿することはできない。気候の推移によっては、人間が新しい行動を起こし、このために新しいパラメータが必要になるから。
つぎは病気の診断。ヒトの遺伝子が解読され、その結果、個人ごとに特定の病気の遺伝子をもつのかどうか、それを知ることができるようになった。だが現実には、当の病気が発症するかどうか、それを予測することはできないでいる。それはヒトが過度に複雑なシステムであり、そこでは正のフィードバックと負のフィードバックをもつ多数のサブシステムがからみあっているから。したがって、そのパラメータを確定することができない。
 最後は金融商品の相場。ここには金融工学として多様なモデル――ポートフォリオ理論など――が提案され、それに基づいて取引がなされている。にもかかわらず、現実にはバブルとそのクラッシュが生じている。それは基礎データの変動を正規分布になるとしていることにある。たとえばブラック=ショールズの式で。しつは、その変動はベキ分布となるのであるが、それを組み込んだ微分方程式を創ることができない。(オレルはリーマン・ショック後『なぜ経済予測は間違えるのか?』という本も刊行したらしい。)
 ここで話題は「未来」へと移る。オレルは、モデルによる予測についてかれ自身の見解を示す。だが、その見解はモデル化、パラメータ化の危うさを繰り返すことに急であり、結果として、不可知論に踏み込んだかにみえる。ここで著者が頼るのは、あるいは全体論――システムを統一的な有機体とみなす説――であり、あるいはガイア仮説――地球は自己調節系であるという説――である。過去、現在の分析が鋭かっただけに、評者はこの平凡な、あるいは反動的ともいえる未来論には失望した。
 ただし、個々の指摘には聞くべきところがある。その一つに、なぜ現行のシミュレーション・モデルが支持されてしているのか、ということがある。それは、それぞれの分野で、そのモデル化が、その支持者によって相互引用されているからだ、というものである。それは、温暖化においてしかり(注2)、遺伝子診断においてしかり、金融取引においてしかり、である。相互引用のネットワークに加入しないものは、その分野では存在しないことになる。
 もう一つ。にもかかわらず、シミュレーション・モデルが役立つ分野がある、ということ。それは予測においてではなく、対象とするシステムの頑健さを理解するためには有効である。つまり、オレルは限定的ではあるが、還元主義を認めていることになる。
 この本はオレル自身の予言によって終わる。その予言とは、どんな姿をとるか不明ではあるが、近未来の人類はかならず未曾有の災害に遭遇する、というものである。かれはこれを数学的なモデルで計算することはできないと主張し、さらにつけ加えている。嵐のくることを予言できなくとも、嵐への対応策を準備しておくことはできる、と。それは天災に対する建築基準の確立であり、パンデミックに対する医薬の開発であり、金融恐慌に対する金融システムの頑健化である。
 以下は評者の付け足し。最近、1000年に1回という地震が生じた。評者は、はからずも70年前に刊行された坪井忠二の著書『地震の話』(注3)を思いだした。そこにはつぎのような主張がある。(1)地震の予知は前途なお遠い。(2)地震の予知ができたとしても、その発生を人為的に抑止することは不可能である。(3)あらゆる施設が耐震的になれば、地震の予知は不必要になる。坪井の主張はオレルのそれを先取りしていたかにみえる。なお、地震予知には方程式がないと指摘する研究者もいる(注4)。
 最後にもうひと言。オレルの著書の読後、評者は先人の箴言をはしなくも想起した。それはヘーゲルの「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛ぶ」という言葉である。人間の知恵(フクロウ)は過去(夕暮れ)を解説できるだけということか。巨大地震の余震と原発事故のなかで、評者は悲観的になりすぎたのかもしれない。

(注1)広瀬通孝、小木哲朗、田村前照『シミュレーションの思想』、東京大学出版会(2002)。http://www.nawa-k.info/rev3.html。ここには、シミュレーション試行に関する機微にわたるノウハウも示されている。
(注2)気候変動に関する政府間パネル『第4次評価報告書』(2007)http://www.env.go.jp/earth/ipcc/4th_rep.html。ここにある「10のうち9が正しい」などという信頼性の定義は、この相互引用の結果ではないか?
(注3)坪井忠二『地震の話』,岩波新書(1941)。坪井は『新・地震の話』,岩波新書(1967)で、地震の予知は成功の見込みは小さいがやってみる価値はあるだろう、とその主張を改めている。
(注4)島村英紀『公認「地震予知」を疑う』、柏書房(2004)。ここには科学研究と制度設計のあいだのきわどい関係も示されている。

『法とコンピュータ』 29号 (2011年)