【195冊目】 中山茂・吉岡斉編 『体制化科学の構造分析:歴史と社会(9)』 リブロポート (1989年)

「科学」という言葉は、とかく「ビッグバン」とか「DNA」といった超日常的な観念を連想させる。私たち一般人は、このような成果は独創的な研究者が自由のなかで人類共有の財産として創造したものである、というイメージを、ともすればもつ。
 そうではない。というのがこの本の主張である。研究の自由が保証され、創意を十二分に展開できるのは、科学のなかのほんの一部分つまりアカデミック科学のみであり、そうでない科学のほうが、この社会では普遍性をもつのである、というのである。
 この主旨にのっとって、この本では科学者とそれ以外の分野の人びと――ジャーナリスト、塾の先生など――が発言している。
 まず「ラベッツ氏おおいに語る」というインタビュー記事がある。ラベッツは1970年代に「産業的科学」というキー・ワードによって、科学の体制化を警告した人である。
 つぎが編者の一人・中山茂氏の「構造化科学の構造分析のために」という全体の見取図的な総論である。ここでは科学をアカデミズム科学、産業化科学、体制化科学、サービス科学に分類し、それぞれの特徴を、成果の評価、成果の公開と秘匿などにかかわらせて示している。
 つぎに山根裕子氏の「行政機構に保有される科学情報の公開をめぐって」がつづく。
 秋葉忠利氏の「行動の指針としての科学技術論をもとめて」は、このテーマにかんするある研究会の討議記録である。ここにはさまざまのキーワード(例、科学技術進歩の不可避性)が紹介され、それについてのコメントが語られる。
 つぎに赤沢五郎氏の「物理学者の社会的責任」と笹本征男氏の「原爆被害者書道調査における日本軍の役割」がつづく。
 横山輝雄氏の「科学知識の社会学と自己言及問題」は、本書のような科学自体にたいする科学者の言及の意味について、社会学はこれまでどう対応してきたかを語っている。その上で、科学批評家という社会集団の必要なことを説いている。
 松本三和夫氏の「産業化科学の歴史的社会学的考察」は、19世紀後半の英国において産業化科学がどのように展開したか、それを造船技術を例として考察したものである。このあとで「平時における軍事動員」という概念を産業化科学と関係づけている。
 最後にもう一人の編者・吉岡斉氏の「国営科学と研究投資」がくる。まず、すべての研究費は投資である、という仮説がベースにされる。それはアカデミズム科学といえども例外ではない。つぎにこの仮説を現実のなかに組こむために開放系モデルが提案される。このモデルにそくしてみると、評価は横断的に、資源配分はタテ割でおこなわれることがわかる。この視点でこれまでの科学社会学をみれば、研究活動について、投資の概念を落としていた。
 国営科学は、アカデミズム科学と非アカデミズム科学に分かれるが、後者では科学のオートノミーがスポンサー(官庁)によってなにがしか制限される。この制限にはアウトプットの秘匿ということがある。この制限付きの国営科学は官僚機構のメカニズムと協力し、永続する特徴をもつ。また効率の視点でみればさまざまの非合理性がある。
 章ごとにコメントを付けよう。
 まず、ラベッツ氏の意見について。この記事は、内容がとびとびであり、議論が内輪に閉じがちであり、局外者には理解しにくい。この本の読者をだれに想定したのか、編者の意図がいま一つ量りかねる。
 つぎに中山論文について。論理は明快である。だが注文を付ければ、著者の分類において、それぞれのシェア(たとえば研究者数でもよい)がどの程度なのか、大雑把でも示してもらえると、より説得力があるものとなっただろう。
 もう一つ、評者にはサービス科学の位置づけがなんとも理解しにくい。サービス科学の機能が必要であることは十分に納得できるのだが。サービス科学というものは前三者とおなじような意味で社会的に存在するものであるのかどうか。
 山根論文は、テーマの前半に論述が偏し、後半の論述は貧しい。しかも論述がつまみ食い的である。科学情報にそくしていえば、しかも構造分析の立場からすれば、グレイ・リテラチュア、秘密特許などの問題を避けるわけにはいかないだろう。だが、それはない。
 秋葉論文は、論理性に薄い。ただしサロン談義の自由さと楽しさはある。
 赤沢論文と笹本論文については、コメントを差し控える。この重いテーマをわずかなスペースで紹介、評価する力量を評者はもたないからである。
 横山論文は、せっかく結論がでかけたところで紙数がなくなった、といった感じである。
 松本論文は、論理が十分に説得的でない。読者が揣摩臆測しなければならない。
 吉岡論文は、概念がやや粗削りではあるが、論理は明快であり、他分野のものにとっても十分に理解できる。問題は、この先どのようにこの理論を洗練していくか、ということだろう。投資という以上は評価がともなわなくてはならない。その尺度をどうするのか。おなじ論理で民営科学を料理したらどうなるのか。評者は近い将来にそれを聞くことを楽しみにしている。
 全体にわたって疑問が一つ。図表がいかにも少ない。文章操作だけでこのようなテーマをすべて語りきることができる、と著者の諸氏はお考えなのか。

『技術と経済』 273号 (1989年)