【198冊目】 ウンベルト・エーコ(河島英昭訳) 『ばらの名前』(上/下)  東京創元社  (1990年)

この本は、現代イタリアの碩学が、1970年代末に頻発した過激派によるテロに刺激されて書いた小説である。題材は中世の修道院を舞台にした殺人事件である。批評家によれば、全編にわたり記号論を下敷きにしている、という。
 こうなると、いかにも読書人好みの高踏的な本、といった感じがする。本自体もけっこうな厚みのものが上下2巻。かなり歯応えがありそうだな、と敬遠する向きもあろう。
 だが欧米では1000万部も売れている大ベストセラーとのこと。いくら欧米読者の知的水準が高いとしても、この数字は、高踏的な物語であるということ以外に何かあることを告げているにちがいない。読んでみて、実際そうであることが分かった。
 まず主人公のウイリアムという修道士が魅力的である。合従連衡をくりかえす諸宗派間の調停者として実務的な力量をもちながら、その思想にはやや異端の臭がする。それだけではない。知的好奇心のかたまりであり、愛書家であり、シャーロック・ホームズばりの観察眼の持主である。
 物語は、このウイリアムとその従者アドソが、奇怪な修道院に7日間滞在するうちにすすむ。(この2人がホームズとワトソンであることは、推理小説マニアには、主人公の出身地で暗示される。)この2人は修道院に到着した日から、ある事件に巻きこまれる。この日から、修道院では、毎日だれかが1人ずつ殺されるのである。
 推理小説なので、筋を詳しく追うことは差しひかえるが、すでに映画も公開されていることだし、筋の展開の妙味だけを紹介しておこう。まず、殺人犯を追いかけていたつもりが、いつしか書物を追って迷宮めぐりをしているという意外さ。つぎに、最初は単なる事故であったものを、2度目から必然性の連環のなかに組みこんでしまうという論理のすりかえ。
 この小説は、主人公の愛する貴重な写本が迷宮とともに炎上することで大団円となる。そして「過ギニシばらハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」としめくくる。
 この本を読んで再認識したのは、中世が徹底した情報社会であった、ということだ。ここには当時の人びとの物理的生活の貧困さと単調さが克明に記録されている。だがその分だけ、当時の人びとは情報を大切にしたようだ。
 この情報への強い関心が、えんえんと続く教義問答として、古写本の由来の考証として、寺院の内陣に描かれた細密な宗教画として、描写されている。これらの情報の多彩さは、ポスト・モダンの現代に浮かれているニュー・サイエンスのあれこれより、ずっと論理的に骨太のようだ。
 もう一つ。ここには当時の革命派の過激な運動が語られている。差別を排し、ときの権力者の不正を発く大衆運動が、燃えあがり、やがて自壊していく。この辛さ、厳しさは、現代にも通じる。おなじように悲惨な運動を、私たちは同時代に見てきた。
 ついでながらこの本の結末は、オーソン・ウエルズの「市民ケーン」を連想させる。こちらの映画も、主人公の愛した「ばら」という名前の橇が火炎に包まれる場面で終わる。火炎のなかのばらというのは、西欧の伝統のなかでは何かの象徴なのかな。といったようにこの本は、多義的な挑発を読者にぶつけてくれる。

東洋経済』 6月16日号 (1990年)