【205冊目】 内藤篤 『ハリウッド・パワーゲーム:アメリカ映画産業の「法と経済」』 TBSブリタニカ (1991年)

きたるべき1990年代には、コンピュータも電気通信も、いままでの応用分野から急激にはみだし、大きく展開するような予感がする。
 コンピュータについていえば、コンピュータ・グラフィクスのさきに映像化、マルチ
メディア化がすすむだろう。
 電気通信の分野についていえば、B-ISDNの導入により、画像通信、映像通信がすすみ、放送との融合がはかられることになるだろう。
 このような傾向を延長してみると、コンピュータにしても電気通信にしても、応用のエンタテインメント分野への進出ということは必然である、ともいえよう。
 しかも、デジタル技術の発展は、情報サービスのなかに、シングル・ソース・マルチ・ユースの仕掛けを増やし、その機能を、かぎりなく洗練させるに違いない。
 このような視点でみると、1世紀まえにニューメディアとして出現した映画の歴史は、1990年代のコンピュータや電気通信の動向を占いたい人にとっては、きわめて示唆にとむものといえる。
 たとえば、エンタテインメントの産業化ということについて、現在のコンピュータ屋、通信屋は、あまり経験をもっていない。
 また、シングル・ソース・マルチ・ユースといった手法については、知的所有権上、複雑な権利処理が必要になるはずであるが、ここでも経験をもたない。
 さて、このような視点でみたとき、映画とは、どのようなメディアであったか。
 まず映画は新しい技術成果であった。したがって、その市場における応用は特許によって独占された。エジソンはそのリーダー格であった。
 さらに映画は、後続のニューメディアから果敢な競争を挑まれた。まずテレビ、ついでCATV、さらにVTR。こうした環境のなかで、映画は、ニューメディアと合従連衡をはかりつつ、一進一退する。その結果、シングル・ソース・マルチ・ユースという手法が発生したわけである。
 このようにみると、映画というメディアの歴史は、技術と法制度とによって大きく影響された、ということが想像できるだろう。
 ここに紹介する本は、米国における映画の歴史を、とくに法制度と産業論という視点から、たどったものである。ここでいう法制度とは、当然予想されるように、まず、独占禁止法、つぎに知的所有権法である。
 だからこの本は、どちらかといえば、芸術表現、映像技法、スター誕生などの話題に流されていたこれまでの映画史とは、一線を画している。
 著者は、映画、音楽、放送、演劇、そしてコンピュータ関係で仕事をしている弁護士であるという。つまり、この本は現場を知っている人によって書かれている。

初出失念(執筆1991年)