【217冊目―その1】 梅棹忠夫 『情報の文明学』 中央公論社 (1988年) 

     
四半世紀ほどまえに、梅棹忠夫氏は情報産業のプロトタイプはお坊さんにあるとする卓抜な説を発表した。この「情報産業論」(1962年)はながいあいだ噂のみ高く、私たち読者は目にすることができなかったが、このたび『情報の文明学』という本に収められて刊行された。
 この本には、この有名な論文をはじめとして、情報をめぐる数多くの言説がまとめられている。これらをいま読んでみると、とうぜんのことながら、なお新しさを失ってないところ、予言どおりになって新味がなくなったところ、見通しがやや違ったかなといったところ、さまざまである。それに長期にわたって発表されたものなので、論点もときに揺れている。
 ただ梅棹理論の一ファンである私は、「情報産業論」をはじめとする氏の産業論を、単なる歴史的文献として鑑賞するにとどめるのはもったいないと思う。ということで、多少のさかしらを発揮し、梅棹理論を現在の目で読みなおしてみることにしたい。
 この理論は、氏が生物学の研究者であるためでもあると思うが、有機体論的な装いをもっている。そのせいでもあろうか、ここには工業にたいする冷やかな態度がうかがわれる。さらにコンピュータに対する意識的ともいえる軽視がある。現代の情報産業を論じるには、この点はやや片手おちではないか。と、要素還元論・数量還元論を奉じるシステム技術者の私は考える。以下、氏の説をたどりつつ、還元主義者の意見をのべてみたい。
 ねんのためにいえば、氏はけっして工業をダメなどとはいってない。むしろ褒めあげてさえいる。だが、全体の文脈をたどると、工業にはいかにもそっけないのである。
   
●梅棹理論の特色
 梅棹理論の特徴は、第1に気宇壮大な文明史的考察が枠組みとなっているところにあり、第2にそうした枠組みのうえに日常茶飯のデータがたくさん重ねられていることにある。つまり骨太の史観と片々たる観察記録より組みたてられている。しかも史観のほうは意外や意外といったアナロジーで説かれ、観察記録のほうは小気味よい包丁さばきで料理されている。だから知的刺激にとんでいる。
 このために私たち読者は、思弁的な論理に迷ったり、抽象の梯子を踏みはずしたりすることなく、理論の全体像をただちに理解できる仕組みになっている。ここが梅棹理論の醍醐味であり、人気のあるゆえんだろう。
 ただし論理の途中が抜けているために、理論全体の構成がその分だけ見えにくくなっている。ここが、知識の構造化がやたらと気になるシステム技術者にはちょっと物足りない。
 もっとも『情報の文明学』という題名からすれば、全体像がのみこめればよろしいというのが氏の意図ではあろう。だが梅棹理論を担ぎたい私は、もう少し細部にこだわりたい。(以下、つづく)

エコノミスト』 66巻47号  (1988年)