【238冊目】 西垣通 『秘術としてのAI思考』 筑摩書房 (1990年)

この本は、タイトルは多少いかがわしいが、また、記述のなかにもバラ十字運動とか汎智論とか、あやしげな話題がでてくるが、読みだしてみると、まことに真当な「ソフトウェア原論」とでもいうべきものである。
 評者は、大型情報システムの運用ということを主たる職業としてきたこともあり、AIには通り一遍の関心しかなかったが、この本を読みはじめたら、すっかり著者の言説のとりこになってしまった。ここに紹介するゆえんである。
 著者はまず「虚構のトポロジー」について説くことから、ソフトウェアの意味を吟味しはじめる。(1)コンピュータは嘘をつくのか。(2)嘘と誤りの関係はどうなのか。(3)虚構は人間の言語使用の本質なのではないのか。(4)虚構のない合理的な言語世界そのものが虚構ではないのか。
 著者はつぎに「人工知能のレトリック」を、構造主義言語学などを援用しつつ考察する。システム技術はファジーな日常言語をコンピュータ・プログラムに変換する。そこで、なにができるか。(1)人工知能は言語を論理操作する。(2)だが言語はファジーである。(3)また言語の普遍性を支える基盤的な枠組みはない。(4)人工知能は半端ものである。

 議論はさらに「汎記憶空間」に入る。ここでは道具としてのコンピュータの意味が問われる。これを著者は人工記憶術をダシにして語る。(1)人間は、言語によって現実世界を形式化し固定化できる。(2)この役割をコンピュータが代行する。(3)この結果、現実世界のなかに「等質な聖域」(つまり情報システム)を作った。
 話は「ソフトウェア・マニエリズム」へと移る。ここの議論は人工知能に関するソフトウェア工学的アセスメントとなる。この章のキー・コンセプトは「プログラムは迷宮である」ということと、「コンピュータは面倒なことをすべてソフトウェアに背負わせた」ということである。この結果、(1)ソフトウェアの規模は人間の管理限界を越える。(2)ソフトウェアの寿命も人間の管理限界を越える。(3)論理が不透明になる(とくに非手続き言語と並行処理は不透明性を強める)。(4)バグと正解の境界がぼやける(注)。
 ソフトウェア原論としてみたばあい、この本はここで終わる。ただし、この本の主題はAIであった。したがって、著者のAI論はこのあとも続く。じつは、これまでの各章のなかでも、言語のレトリック(論理性をこえる表現)について、著者は積極的に評価してきた。このような言説がこの章あたりから、おおっぴらとなる。そして、言語のレトリックを表現するファジーなプログラムの価値が、ファミコン少年のバグ探しを参照しつつ、讃えられる。
 あとは一瀉千里。論旨は最終章の「人工知能芸術論」へと続く。ここまでくれば著者のいいたいことは、もう予想がつくだろう。「人工知能は生産的=実用的な分析知の操作でなく、創造的=美的な総合知の活用をめざさなければならない。」これが著者の結論である。
    この本の表現は論理的ではあるが、幾何学的精神とはほど遠い。練達のシステム・プログラマーの方法に近い。つまり、読者はスパゲッティー・プログラムをたどる楽しみと苦労とを経験するだろう。だから誤読の可能性おおあり、評者もその誤りを冒しているかもしれない。ただし、こういう読書も読書の愉悦というものであろう。
 なお、この本はシークエンシャルに読む必要がある。それは、ここまでの紹介でお分りのことであろう。

(注) この意見は、のちのY2Kで確認されることになる。

『コンピュートピア』 5月号 (1990年)