【254冊目】 ローレンス・レッシグ(山形浩生訳) 『コモンズ:ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』 翔泳社 (2002年)

 2002年1月15日、米国の連邦最高裁は映画の著作権保護期間を創作後120年(あるいは発行後95年)とする法律が違憲にはならないという判決を下した。この裁判において、違憲論を理論的に支えた法律家がこの本の著者レッシグであった。
 この行動からもうかがえるように、レッシグの主張は長すぎる著作権の囲い込みは創作性を窒息させてしまう、というものである。
 レッシグの言い分を聞こう。まず、「コモンズ」とはなにか。共有のものとして保有されている資源である。その共有とは、そこにいる多数の人にとってフリーであることを意味する。たとえば、公道がそう。公園がそう。相対性理論がそう。パブリック・ドメインにある著作物がそう。
 ここで評者はおせっかいな注をいれたい。「共有」という言葉を聞いた人はすぐにハーディンの「共有地の悲劇」という論文を思い出すはずだ。これは共有地はそこに立ち入る人のエゴによって荒廃してしまうだろう、という主張だ。この論文は環境問題の分野でいまでもよく参照される。ハーディンとレッシグとはどこが同じでどこが違うのか。
 レッシグは言う。ハーディンは共有地は荒廃するといったが、その共有地は創造の場でもある。それは共有地が新しい創造を作るための余裕−−リダンダンシィ−−を作るからだ。(レッシグのハーディン理解はやや一方的であるが、ここではその点に深入りはしない。)
 だから、とレッシグは続ける。コモンズを認めないと「ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」ことになる。この主張は本書のサブタイトルにも使われている。
 レッシグはその発想を具体化するためにもう一つの枠組みを用意している。それは世界を物理層、コード層、コンテンツ層に分けていることだ。物理層とは電波や通信ネットワークを構成するハードウェアを、コード層は物理層を動かす論理を、コンテンツ層は物理層を往復するデジタル情報を指す。
 レッシグの提案は、それぞれの層にコモンズを作るべきだというものである。現実には、すでにここに多様な規制がある。これらの規制は、あるいは弱すぎるし、あるいは強すぎる。
 ここで再び注をいれる。レッシグは前著の『コード』において、規制にはもちろん法律もあるが、じつは技術もある、と主張していた。たとえば、アクセス・コントロールの技術は実質的に制度的な規制の役割を代行している。レッシグの言う規制とは、このような膨らみをもっている。
 『コモンズ』にもどる。レッシグは共有地を設けるために規制を再構成すべきだという。そのためには一つの基準が必要である。それは米国憲法である。米国憲法は一方では著作物に著作権という私権を与え、もう一方ではその権利に制限を設けている。この原則にもどれ。これがレッシグの立場。
 ここで評者の感想に入る。現在、著作権については市場主導の動きが圧倒的に強い。レッシグの本は、これに飽き足りなく思う人にとってはよき支えとなるはずである。ほとんどの法学者が市場優先で走り出している現在、レッシグは貴重な人である。
 ただし、評者には大きい不満がある。著作権の判断基準は米国憲法のみではない。くわえて、米国の著作権制度は国際標準でもない。レッシグの論法は、ヤード・ポンド法の世界がすべてで、メートル法の世界があるということをまったく知らない人のそれである。
               
『情報処理』 46巻1号 (2003年)