【281冊目】 中島秀人 『ロバート・フック ニュートンに消された男』  朝日新聞社 (1996年)

                           
フックという科学者の名前は、理科好きの中学生であれば、細胞と「フックの法則」(バネ弾性の理論)の発見者として、なじみがあるはずである。科学史のなかで定義すれば、フックは英国の王立協会を舞台として活躍をはじめた実験科学者であった。なお、王立協会は清教徒革命後に設立された世界最古の自然科学系の学界として知られている。
 さて科学者フックについてだが、かれの名前は、現代では本国の英国でも、細胞とバネ弾性にしか残ってない。伝記にも見るべきものはない。だが、フックの業績は著者によれば万能の科学者レオナルド並である。顕微鏡による自然観察とその図版『ミクログラフィア』の出版、20メートルに達す長大望遠鏡の製作とそれによる惑星観測、自在継手の発明、時計やランプや真空ポンプの改良、あるいは「ボイルの法則」発見への寄与、さらには呼吸、燃焼、運動、色彩などの諸現象に関する理論化など。以上が、かれの業績のカタログである。余談になるが、『ミクログラフィア』について、政治家ピープスはその評判に日記に「生まれてはじめてお目にかかる思いつきのよい本である」と書いているという。
 万能の科学者であったものが細胞と弾性の研究者としてしか伝えられてない。著者はこの事実に気づく。なぜか。この謎解きについての成果と、ここにいたる経緯とが、この本の主題となる。
 まず、謎解きの成果として分かったことはなにか。フックが後輩ニュートンによって抹殺されたということだ。なぜ抹殺されたのか。フックの仮借ない批判的精神が災いの原因になった。かれは口うるさい学界のボスとして、しばしば同時代の科学者の業績に割って入り、そこに自分の優先権があると主張した。このクックの行動がニュートンに疎まれた。
 脇道に入る。当時の科学者も業績について先取権争いをしていた。かれらは自分の優先権を主張するために、第三者を経由して自分の業績を仄めかす私信を交換したり、暗号仕立ての文書を学界の事務局に寄託したりしていた。とうぜんながら、発明や発見の帰属についてあいまいな点が生じ、ここに優先権争いが割りこんだ。ただし、先取権について敏感だったのはフックだけではない。同時代の科学者ホイヘンスライプニッツニュートンも似た行動をとった。このへんの話はライプニッツの伝記(エイトン著『ライプニッツの普遍計画』工作社 1990)もくり返し紹介している。問題はフックがもっとも派手に先取権を主張したことにある。
 話を戻す。フックはニュートンに対して、反射式望遠鏡の設計について、色彩の解釈について、落下する物体の運動について、くりかえして手厳しい批判を試みた。これには厄介な優先権争いが絡んだ。内向的なニュートンはフックと真っ正面から対決することは避けた。かれの死を待ち、そのあとでフックの活躍した記録を学界から抹消する。それは自著『プリンキピア』においてフックの業績を無視することから、王立協会が所蔵していたフックの実験装置やフックの肖像画を廃棄することにまで及んだ。
 ニュートンには「私が遠くを見ることができたのは、巨人の肩に乗ったからである」という美しい有名な言葉がある。じつは、これはフックへの手紙にある言葉だという。これなどニュートンがとった面従腹背の姿勢を端的に示すものといえる。
 ふたたび脇道に。科学社会学マートンによれば「巨人の肩の上」という名文句はニュートンの独創ではなく、12世紀のスコラ哲学者シャルトルのベルナールがすでに語っているという。
 ついでに、マートン浩瀚な『社会理論と社会構造』(みすず書房 1961年)をブラウジングしてみると、ニュートンのフックに関する言及が注として引用されている。おもしろいので孫引きしよう。ニュートンいわく。
 「自然哲学は、生意気な訴訟好きの婦人のようなもので、彼女とうまく付き合っていこうとする男は、同じように訴訟もうまくやりこなさなければならない」。これにマートンは「フックは周知のように訴訟好きであった」と付記している。
 ここで著者の結論。フックを歴史から消したのは、ニュートンの悪意だけによるものではない。名誉革命のあと、理論を偏重し実学を軽視した英国社会が実験科学者のフックを忘れさせた。
 著者はどのようにしてこの謎解きに成功したのか。かれは調査のために英国に出掛けたものの最初は徒手空拳である。フックに関する記録は貧しかった。にもかかわらず、著者の努力は、著者をして英国人でも果たせなかったフック像の再現へと導く。著者は英国の公文書館や図書館がよく整備されていたことに助けられたという。だが評者は、そうした幸運を適切に生かすことのできた著者の力量に拍手を送りたい。

『一冊の本』 2巻3号 (1997年)