【364冊目】 ダニエル・ソローヴ(大谷卓史訳)『プライバシーの新理論』みすず書房(2013)

この本の著者は法学者、訳者の大谷さんは倫理学の研究者である。そして評者である私は老いたシステム・エンジニアである。たがいに専門領域が異なる。専門領域の異なるものが訳者となり、さらに評者となる。
このようにプライバシーは専門領域が異なっても関心の対象となる主題である。それはなぜか。これに応えた本がこの『プライバシーの新理論』である。
第1章は「プライバシー:未整理の概念」である。ここで著者は「プライバシーは、カメレオンのごとき言葉であって、外延的にはまったく共通点がない幅広い利益を指し、内包的には、その名前のもとで主張されている利益ならなんでも代表する看板を与えるために用いられている」と示している。この開放的な姿勢が著者のこの本における主張を支えることとなる。
第2章は「プライバシー理論とその欠陥」となる。ここで著者はこれまでのプライバシー論を列挙し、そこに示されるプライバシーの定義を整理する。
まずウォーレン&ブランダイスの「放っておいてもらう権利」を挙げ、これに「(自己への)限定アクセス」「秘密」「個人情報のコントロール」「人格性」「親密性」と続ける。なお、人格性には公的規制――たとえば監視――からの保護も入る。プライバシー論の分野で評判のプロッサーの四類型――私生活への侵入からの保護など――は上記のどれかに入る。
著者はこれら既存のプライバシー概念をていねいに分析し、それぞれの定義を通しての共通部分はなく、したがってそれらはカメレオン的な概念となる、とダメを押す。
第3章は「プライバシーの再構築」と題され、ここで新しいプライバシー論を組み立てるための方法が示される。著者はその方法として「ウィトゲンシュタインの家族的類似」という用語を持ち出す。哲学的な素養に欠ける評者にはこの用語を噛みくだく自信はないが、あえてそれを試みれば、それはプライバシーという用語にリンクされる用語を列挙しつつ、その先をたどり、その先にぶら下がってくる用語の集合を新しいプライバシーの定義として理解する、ということかとも思う。つまり、プライバシーの新定義はハイパーテキストとして表現される、とも解せるだろう。
このとき、プライバシーの新定義は「状況依存的、文脈依存的」となる。そして「時間的に流動し、空間的には多様性を帯びる」。だがこれによって、「社会保障番号、性的振る舞い、日記、住居を一つのプライバシーという概念に属する」と考えることができる。この章では「家族」「性」「身体」「通信」という用語がハイパーテキストのハブとなる。
本書の出版後、米国では「追跡を拒否する権利」、欧州では「忘れられる権利および削除する権利」なども提案されているが、これで著者の意見が揺らぐとは考えにくい。
第4章で議論は「プライバシーの価値」に入る。ここで著者は、あからさまに、そう、とは書いていないが、プライバシーの費用便益分析に入る。著者はまず「プライバシーの美徳と悪徳」を例示し、その価値が相対的であることを示す。美徳については「個人的目標達成の手段」になるとウェスティンの意見を引用し、悪徳については「言論と出版の自由として知られる自由(への脅威)」になると、ポストレルという作家の見解を引用している。
著者はさらに進む。「バニラアイスクリームは多くの人びとにとって、それが好きだという内在的価値を有するが、それがなぜか、その理由をあげるのは容易ではない――プライバシーの価値も同じである」(要旨)と。だから、プライバシーの価値は道具的な価値として、プラグマチズム的な方法により示すことしかできない、と説く。
そして括る。「個人は私的空間――プライバシー(評者、注)――を用いて、自分自身の性格を育て、他人を貶め、暴動を計画し、切手を集め、マスターベーションをし、トルストイを読み、テレビを視聴し、無為に過ごすことができる」と。これはヴォルフェという研究者からの引用である。
ここで一息。およそ法学書は引用で固められている。この著書も例にもれない。判例、他者の論文からの引用か、あるいはそれらの梗概の記述が続く。その引用の対象は法学分野のものにとどまらない。それはアーレント、イソップ、エディソン、トックヴィル、ネイダー、ボルヘス三島由紀夫などにわたる。ただし、文献表をみるとその引用は『ブルーブック』の方式で統一されている。この意味では法学書の定石を外してはいない。なお、『ブルーブック』は米国の著名法学雑誌(複数)の編集者たちが作成した引用法のマニュアルである。このような引用を縦横に駆使し、その引用に大きな意味を持たせた第5章が、つぎに続く。
第5章は「プライバシーの類型論」と題され、ページ数でみると本書の約三分の一を占めている。つまり著者がもっともその知的エネルギーを注ぎ込んだ章となる。ここでは、法律、判例憲法ガイドラインを始め、多くの文献――法学のみならず政治学社会学などの分野を含む――を探索し、ここからボトムアップ的にプライバシーの道具的な価値をすくいあげる。引用される文献は一ページあたり四ないし五件となる。ここで著者は、みずからがプラグマチズム的と示した方法を実行してみせる。
著者は、まず、解析用の枠組みとして、監視、個人情報の二次使用、不法行為による個人情報の開示、個人の意思決定への介入など、十四の類型を挙げ、つぎに、それぞれの価値を、対抗する公共的な価値と比較考量する。ということで、この章は『プライバシー逆引き事典』といった格好になっている。
著者は第5章での記述を、デューイを援用しつつおこなっている。だがここで私は、その自分がエンジニアであるためか、デューイをブリッジマン――超高圧物理の研究者にしてノーベル賞受賞者、デューイと同世代人――に置き換えてみたくなった。そのブリッジマンは操作主義という方法論を提唱していた。それは、端折って言えば、物差しがあるから長さを定義できる、というものであり、さらに付け加えれば、机の寸法を測る物差しと月までの距離を測る物差しとは違う、というものであった。著者がもしブリッジマンの物差しを知っていたら、それはプライバシーを定義する道具として、より適切であったろう。
評者はブリッジマンを担いだが、これには理由がある。プライバシーは技術的な環境によって変化するものであり、したがって理学系の道具立てによるほうが理解しやすいのではないか、と考えたからである。
第6章は「プライバシー:新しい理解」である。ここで著者はそのプラグマチズム的な方法の総括に入る。そしてその主張を、スポーツ選手に対するドラグ検査、政府によるデータマイニング、街頭の監視カメラ、の三課題に適用してみせ、その浩瀚な書物を閉じる。と言いかけて気が付いたが、ここにパンデミックへの防疫――これもプライバシーにかかわる――についても書き加えてほしかった。
いま、浩瀚な、と言ったが、この本は法学の学生でなければ厚すぎる。エンジニアの読後感を率直に示せば、おなじ結論を、たぶん、三分の一のページ数で示すことができたろう。たしか『ハーバード・ロー・レビュー』の投稿規定には二万五〇〇〇語以内、『ネイチャー』のそれは三〇〇〇語以内、とあったはずだ。まあ、専門分野によって読み手の忍耐力が違う、いや失礼、読み方が違う、ということか。
じつは評者はソローヴの名前にはすでに馴染んでいた。というのは、評者は法学文献のデータベース検索を楽しみとしているが、その検索にこの研究者名の論文がよく引っ掛かったからである。評者のようなエンジニア風情の好みにあう論文の著者はさぞかし傍流の研究者であろうかと高を括っていたら然に非ず、訳者によれば著者はこの道の大家であるという。その大家と思わせないところに、この著者の柔軟性があるともいえる。
本書にもどれば、日本のロイヤーは、これは法文化の違う国の議論だよ、とソローヴを一蹴するかもしれない。だが、プライバシーにかかわる技術の動向は国境を越えて、つまり法文化の如何とはかかわりなく拡がるはずである。
今後、プライバシー概念はさらなる変容を迫られるだろう。カメレオンは生き延びることができるだろうか。たぶん、絶滅種になるだろう。
   
『みすず』11月号(2013)より(前半)